大雪山

未だ見たことのない風景を見てみたい。
その風景の、実に宏壮なることをこの目におさめたい。
その風景の、実に多様なることを体感したい。

ワンダー・フォーゲルという活動の意味を、筆者はこのあたりに求めている。もし「日本」を知ろうと思うのならば、その達成は、「日本」を歩くことによらずしてはまず見込みがないのではないか。今夏の北海道大雪山への登山は、そういう意味においても、筆者に忘れがたい印象を与えることとなった。1回生が輪番で記事を書く、ということになって、是非とも夏合宿のことを書きたいと思った。これまでのブログと重複してしまっていること、どうかご容赦いただきたい。


われわれは、層雲峡の登り口から取り付いた。小一時間ほどして、大雪山系の北辺を一望できる黒岳の山頂に達したとき、その風景の色合いの新鮮さに驚いた。北海道島を支える脊梁であるに相応しい貫録を備えながら、あまりにも悠揚としていて、その容易な把握を撥ねつける。捉えどころがない。筆者はここで、山岳風景そのものに感動を覚えるという(槍ヶ岳を見た、とか、八経ヶ岳の山頂に達した、とかいう類のものではなく)、案外多くはない感動の気持を抱くに至った。深田久弥は、大雪山の魅力はその「贅沢さ」、「野放図さ」にあると書いていたが、まさしくその通りであった。難所を攀じるなどの行いによって却って先鋭的に人間の存在を強調するアルプスとは異なって、この雄大な風景の前では、人間個人は極限まで矮小化するように思われた。

北海岳


大学を出発して、大阪駅から、JRを京都、園部、福知山で乗換え、舞鶴港へ。新日本海フェリーで丸一日揺られ、小樽で一泊。翌日小樽築港駅から札幌、岩見沢、滝川、旭川各駅を経て、上川駅に達した。青春18きっぷの旅であった。こういう「ゆとり」ある貧乏旅行も、ワンダー・フォーゲルの魅力の一であると感じている人が多い。大阪のそれとはまるで異なる景色に心を動かされるのは、こういうアプローチの仕様が、いちいち旅情をかきたてるからかもしれない。

石北本線


もちろん、山は決してアマくない。黒岳から白雲岳の裾野まで山行して、避難小屋で暖かな夜明けを恃み明かした翌朝(気象状況の予想により、この日の幕営は避けることとなった)、われわれは目を瞠った。吹雪。「関西の谷川岳」比良山系で練成したとはいえ、あの寒さには相当こたえた。1日の停滞を越しても、その状況はたいして好転しなかった。尾根を渡る尋常でない強風によって、旭岳までの縦走は断念せざるをえなかった。大雪山の縦走記録としてはかなり古い部類に属する大町桂月の登山記を見ても、この寒さと風には相当やられていることがわかる。熟練の登山者でも、北海岳の西稜に不意に手こずらされることがあるらしい。単純なピーク・ハントに拘泥し、敗北などと思うことがあってはならない。山は、ただそのピークをもって山と云うのではない。大雪山―ヌタプカウシベの深奥な世界を、ほんの少しだけでも体感することができたのだ。それほど有意義なことが、ほかにあるだろうか。8月末~9月上旬。ここに来るまでは、猛暑にあえいでいたのに。。。日本の広さが実感された。日本の自然の厳しさもまた思い知らされた。


山の天候というものは、不順、局所的なもので、黒岳に戻ればあたたかな日が照っていて、皆の顔はほころんだ(この日初めて、日光にあたるだけで、それだけで暖かいのだということを知った)。霧は晴れて、眼前には、数日前と同じ壮大な、豊かな風景が展開していた。19歳で夭折したアイヌの少女知里幸惠は、『アイヌ神謡集』の序文に「其の昔此の広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児のように、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活してゐた彼等は、真に自然の寵児、何と云ふ幸福な人だちであったでせう。」と謳っているが、実に、ザックの奥にしまい込んでいた岩波文庫『アイヌ神謡集』を読み返したくなる山旅であった。

(文責=1回生 越智 勇介)