828日~94

大阪駅集合で舞鶴まで移動し、往路はフェリーで小樽まで行き、そこから上川まで電車とタクシーで麓に向かいました。下山後は旭川で打ち上げをして解散しました。北大クマ研究会(クマ研)や黒岳石室の小屋のオーナーさんなど、様々な出会いがありました。9月初めの台風のために、61stリーダーさんの判断により合宿は一日前倒しの変則的なスケジュールとなりましたが、それでも大いに楽しめた1週間でした。直後に北海道胆振地区を襲った地震で家に帰れなくなった部員が続出しましたが、これが下山後で本当に幸運でした。良くも悪くも初めての体験が多くて部員それぞれが感じ、成長したことも多いと思います。

 

以下、僕なりの夏合宿の感想文です。報告は以上ですので気になった方は読んでいただけるとありがたいです。

 

山は人に後悔させる。

 

層雲峡から山腹に張り付くように伸びているロープウェーに乗り、ぐんぐんと高度を上げる。麓で見上げていた雲の高度に到達し、いつしか一面霧の世界となった。息が白い。体が冷えてくる。

 

 サイト地めざして黒岳の斜面を一歩一歩ゆっくりと上る。黒岳の山頂に立つ。視界が無いせいか制覇したという実感がない。斜面を下りながら、足元の道を伸ばし、北海道の緩やかな稜線や谷あいの沢を思い描く。これから待ち受けている旭岳や白雲岳はどのような姿をしているのだろうか。まだ見ぬ頂に思いを馳せ、天候だけは良くなってほしいと、黒岳石室のベースキャンプでずっと願っていた。

 

 朝、空を見上げる。澄み切った蒼が高い。すぐそこまで宇宙が迫っている。

高原の切れ落ちたところからゆっくりと威厳に満ちた太陽が昇る。夏合宿で初めて目にする日の出だ。なんて美しいのだろう。それまで体を切り裂くような冷酷な風に晒され緊張した体を、いとも簡単に内部からほぐしてくれる。科学技術が進歩したって、人類は太陽以上の明かりを作ることはできないだろう。どうしてこうも温かいのか、解明することさえできないだろう。私を分析するな、感じろと太陽が脳に呼びかけていた。LEDばかりが煌々と光り輝く時代になり、最近の明かりはどんどん冷たくなっているように感じて、心なしか悲しくなった。

渡渉の沢水がきりりと冷たい。雪解けの遅い大地に流れる純粋で清冽な水分子が、神経を伝って脳を冷やす。触れている部分はわずかなのに、自分の影が大地に吸収されてゆく。はきなれた登山靴を履き、山道を進んでゆく。足元の氷を砕き、石を蹴り飛ばして、自分の薄くなった影を踏みつけ、歩いてゆく。いや、歩くことしかできない。捕食するために能動的に移動するという、生命の最も単純な作業をただ流れるようにやっているだけだった。

 

北海岳の山頂に足を踏み入れ、ひと時の休息ののち、静寂の中じっと耳を澄ます。風が傍らをひょうと通り抜けてゆく。「おい、ちょっと待てよ。」と言ってみたが何の反応もない。ここには人間なんて存在しないのだ。風の通り道さえも遮ることができない、私は微塵のような存在だった。雲ひとつない青い空と不動の大地からではなく、一方行に流れ続ける風からしか、時を感じることができなかった。

 

 

旭岳、稜線を越えようと斜面を駆け登ってくる雲の切れ間から、どこまで続いているかもわからない雲海がどっちを向いても目に入ってくる。ここが北海道最高峰だ。足元のわずかな地面と、遥か彼方まで広がる雲と空。久しぶりの解放感だ。大都会大阪では感じることができない、雄大な景色が自分を包み込む。ただただ見入っていた。眼下にかかる虹を見ても感動することしかできない。私は空気のようになっていた。私は、本当は空気なのかもしれない。

 

コルを抜けて、野球場のように広い高原をトラバースして、稜線をなぞり、白雲岳に立つ。重力から逃れ、体が浮遊する。鳥の目で山を見る俯瞰で眺める。なんと見事な赤銅色のうねりなのだろう。ところどころに表れている雪渓に、一瞬目がくらみそうになる。氷河が大地を削り出して作るカールの曲面に、むき出しの地面と雪渓と草原が、パッチワークのように彼方の山麓まで伸びている。絶え間ない浸食作用と生命が繁栄する草原のせめぎあいが、悠久の時を経て私の目に飛び込んでくる。網膜に映した像は、水晶体の屈折によって倒立しているのに、私は空が上で大地が下のありのままの景色を感じている。不思議だ。現実を見ているのに現実を感じない。眼球なんて実は何の働きもしていないのではないか。

 

文明の力が築き上げた都会にないものすべてを、山は持っている。数多の人間が汗水を流し、時には命を落とし、それでも手に入れられなかったものが、山にはある。たとえブルドーザーで土砂を山盛りにしても、この景色は決して作れまい。それはだれが作ったとも知らない大地や大空や生命に神秘を感じ、強く訴えかけてくるものを掬おうするからだと思う。

自分も他の生き物と同じように、この山々の片鱗に過ぎない。束の間の人間の姿をとったあと、一度大地に吸収されて、他の生命として再び立ち現れるのだろう。そういった目に見えない美しさ、形に残らない繊細さが私たちを惹きつけるのである。

 

山に登って、いままで長い間なくしていたものを、再び取り戻せそうな気がした。しかし、山を下りるころにはまた失くすのだろう。綺麗な写真を撮っても一生の思い出を作っても、持ち帰れないものが、大雪山にはあった。

 

現代文明に侵蝕された自分のカレンダーを見て、人間に戻った私は踵を返し、下山する。

そのたびに私は思うのだ。

 

山は人に後悔させる。と。